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2012年3月26日月曜日

3.18 もみもみ肉球班


なさけな隊もみもみ肉球班は、この日、ノボせんせと妻・娘の精強隊。
ノボせんせにラグビー少年の息子の二人隊による仮設合同慰霊祭お手伝いに続く泉玉露仮設入りです。
このところ、ノボせんせ一家は、家族での活動が恒例化してきました。
あとで述べますが、ごく自然にそれができているのがうらやましい。



この日は、茨城からの参加という、足湯ボランティアの方々とご一緒でありました。
期せずして、足湯をやってリラックスして、臨時整骨院の順番待ちというスタイルになったのでした。
このやり方が好評で、いつもよりせんせはたくさんの人たちを診ることになりました。
16人を相手に、たっぷり3時間、ほとんど休みなしの奮闘でした。






さて、ノボさん一家動員のよさは、実に自然になされていることが素晴らしい。
言ってしまえば、仮設の人たちとお友達になり、「また、行きたいわ!」の関係になっているのです。
ボランティアが何かをもたらす、それを待つ側がありがたがる。
いつまでもそれでは、どこか気色悪くありませんか?


そこを自然にノボ一家は乗り越えてしまったようにみえます。





で、ノボ夫人と中学生の娘さんは、仮設のSさんに、荷紐によるバスケットづくりを教わっているのです。
それも、前回、この仮設に来た時に、「いっしょにやりましょ」「教えてください」で、仲良くなってしまっての実現でした。
荷紐による籠づくりは、さくらさかせるぞう、とともに泉玉露仮設の人々が取り組んでいる、グループ活動です。


この日は、借り上げ住宅に避難しているSさんの娘さんもいらしてました。
原発事故直後から乳飲み子を抱えて、「ミルクのお湯をさがすのに必死だった」といったという避難中の辛い話を聞いていたようです。


ひとりひとりがそんな苦難の道を歩んできたのです。
どうか、ノボ一家のように、たくさんの人たちに、自然に彼らと繋がって欲しい、と旅団長は心より願ったのでありました。




★仮設の4月の予定
前日に「カッチョイ!会議」(自治会・支援者活動調整委員会)をやりました。
・4月15日に、いわき市大剣公園(仮設より車10分)で花見をや るべ!
・仮設近くの借り上げ畑地で、耕作をはじめるぞ
・4月8日に、自治会総会を予定し、その準備に入る


 といったことが話し合われ、当然にも、わがウシトラ旅団は、できることを懸命にやりますよ、という話になりました。


4月14日は、下北沢で「ウシトラ旅団結成1周年 一緒に生き抜こう!ライブ」が予定されております。
が、翌15日にも、輜重輸卒鶴翼隊を編成し、「花見を一緒に楽しんじゃうもんね!」の行動をやりたいと考えております。

2012年3月15日木曜日

泉玉露仮設自治会 合同慰霊祭

あの大地震と津波被害から1年。
旅団長たちは、泉玉露の合同慰霊祭に参加することにいたしました。
他の旅団員は、郡山の脱原発県民集会や、東京の集会に参加したものが多かったようです。




泉玉露応急仮設住宅自治会主催の合同慰霊祭に向かったのは、ノボさんと息子の大くん、ソメビンに旅団長の4人。
ノボ親子は駐車場の案内を担当してもらいました。実は、近隣からも合同慰霊祭に参加する人たちが予想され、自治会は駐車場を借りたのでありました。






富岡町は行政機関としての町役場を郡山においており、同時刻にそこで町主催の慰霊祭が行われることになっていました。
泉玉露仮設で「合同慰霊祭」が行われると聞いて、「郡山まで行かなくてもいいんだ」と安堵の声が上がったと聞きました。


泉玉露仮設自治会は、自分たち独自に慰霊祭をやると決定して、その準備から私たちウシトラ旅団はお手伝いしていたというわけです。


「東日本大震災 合同慰霊祭」の大きな横断幕を準備していた折に、仮設から連絡が入り、そこに、テモテ教会ボランティアセンターの名と、ウシトラ旅団の名をどうしても入れるようにという話になったのです。
仮設の人々の感謝の気持ちはたしかにありがたくいただきました。
結局、「協力」という形で、われわれウシトラ旅団の名前も入れることになったのです。それでも「いいんだろうか?」という思いが旅団長から去らなかったのでした。






「協力」と「ウシトラ旅団」のその文字を眺めている間に、役員の方とよもやま話のように「これから」について語っておりました。
新たな線引による、帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域という区切りで、いま一緒に暮らしている人々が、ばらばらにされかねないという恐れを、役員も私たちも感じております。






はっきり言えば、20ミリシーベルト/年の私たちからすれば呆れ返る基準で「元いたところに帰れ」「これ以上の補償はなし」ということになるのではないか。
帰れぬ人も、田畑などの面積の違いなどで、補償の多寡が生じて、大きな格差が生まれてくるのではないか。
行く手には困難が待ち構えている。それをどうしていったらいいのか?
ウシトラのように力なきボランティアには重すぎる課題です。
「でも、俺たちはずっとここに来ますよ。縁ですから」
ふと、気づけば、彼の目は涙で潤んでおりました。
国に棄てられる孤絶感、有効な方針も出さず様子見で、国のその施策に乗っかってしまう町に対する絶望感。
この中でみなさん生きています。


やっぱり、力はなくても俺たちは「一緒に生き抜く!」と言わなきゃいけないと思った瞬間でした。






慰霊祭は午後2時開始。
全体の参加者、およそ100人ほどでしょうか。仮設の外からの(借り上げ住宅など)参加者がおおくいらしたようです。
ソメビンの親父さま、渾身の「合同慰霊祭」横断幕と位牌が備えられ、いわき自由労組が持ってきてくれたテントの中に、いい祭壇が作られていました。
やがて、お坊さんたちがリンを鳴らしながら一列でやってこられ、東日本大震災犠牲者の霊を弔うとわかりやすく祭壇に向かって仏歌のごとくに。(こういうのもあるのだと、旅団長は目からウロコ)。
その中にも、仮設で亡くなった人へ慰霊の言葉がからなず入っていました。
そうなんだよね。この仮設の暮らしの中でなくなる人もいるのです。




やがて般若心経が唱えられ、焼香が始まります。
お坊さんの中にあって、テモテの牧師さんは聖書を手にして、静かにすわっていらっしゃる。
いいなぁ。民衆的ごった煮的慰霊祭。






お坊さん代表の講話は「慰霊はいまをみなさんが生き抜くことの中にある。おとなしくしているばかりというのはおかしい。町議会議員から国会議員に至るまで、まったくやることをやっていない。東電、国にお願いする立場ではないのです。みなさんは要求する立場なんですから」と。
こちらも民衆の中にある宗教者のいうべきことを言っておられた。
   
 ☆早川和尚の法話
http://yourlisten.com/channel/content/117990/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E5%90%88_?cache=1



2時46分、黙祷が始まったとき、あちらこちらで目頭を押さえる人の姿がありました。
原発事故で避難してきたに違いないのですが、富岡町の人々は地震・津波で犠牲者も出しています。
家族や友人を亡くした人たちだったのでしょう。






慰霊祭の前後に祭壇の周辺で語られていた言葉といえば
「町長は花の一つも出さねえで」「町会議員も来やしねえ」
「町(主催)の慰霊祭より、ここの慰霊祭が中心だっぺ。(笑)」
見捨てられているの感覚と、自分たちが自力でやるの心意気が両方存在しているようにみえました。




★キャンドルナイトと「打ち上げ」
夕闇が迫ってくるころ、廃油で作った手作りロウソクを「3.11」の文字に子供たちが並べました。






敬虔な雰囲気にはまるで遠く、並べられたロウソクをポンポン跳ねて飛んでいる子供たち。花火ごっこのような賑やかな声。
少し落ち着けば、大人がじっと、その火文字を見つめている。








郡山の県民集会から泉玉露に破鍋さんたち御一行がついたのは、「打ち上げ」が始まった頃でした。
これも期せずして、いい交流会になりました。




旅団長も本音、生の声を聞く機会が持てました。
こういう仮設の声の聞き取りと、外の経験を擦り合わせる機会を意識的に作らねばと、改めて思わされました。
泉玉露の合同慰霊祭は「これから」に向かう人々の自主的自立的な、見事な慰霊祭でした。









2012年3月10日土曜日

走れ!仙石線

10日、仙台と石巻を結ぶ「仙石線」の復活を目指すイベント「走れ!仙石線」が行われたようです。
旅団長は、昨年7月、仙台から石巻、女川と案内してもらいました。
石巻や女川はまだ凄まじい光景が広がっていました。


仙石線では、冠水した向こうに電車の車両がポツンと線路の上に取り残されていました。
あれは、地震・津波と襲われたこの線路に、孤独に何かを待っているようでした。
待っていたもの、復興への希みの火が赤々と燃え続けています!


仙台の「伊達バサラ名称拒否隊」Sさんよりの報告です。


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復活を願う「寄せ書きハンカチ」が手をつなぐ



朝から雪のち小雨のなか,お手伝いをしてきました。

津波が両方から合わさって襲った野蒜駅から東名駅まで参加者は歩き,東名駅前で「夢ハンカチを掲げ」早期の仙石線復旧を叫びました。

残念ながら,この天候で子どもたちの姿は少なかったけど,ハンカチに将来の思いがいっぱいでした。



お、これもかの「虎舞」か。ウシトラ猫角が頼るご親戚

写真にある運河は,貞山運河です。
野蒜駅すぐ前を流れ,駅から運河を越えたところにある場所には,この日場所を確かめるように花と果物を添えていたご夫婦の姿もありました。




さまざまな人たちがこの仙石線復活を願って支援に来ました。

わたしは,宮城全労協の方々と一緒でしたが、大阪全労協の方々も多くの「夢ハンカチ」を寄せ,また出店(関西風おでん)しました。佐賀県など九州や、東京の生協、はたまた新潟のお餅のあの会社など、出店のお楽しみはすべて無料で振る舞われました。






★旅団長のおまけ  http://www.youtube.com/watch?v=hiFLw74ferY

2012年3月8日木曜日

2.26 大熊町からの避難者と放射能問題学習会

またまた報告が遅れてしまって申し訳ありません。
2月26日、会津若松にある大熊町の避難者のみなさんの応急仮設住宅へ行ってまいりました。
大熊町、言わずと知れた福島第一原発の立地する町です。
3月12日の水素爆発以来、あの放射性物質を撒き散らしているフクイチ周辺から逃れてきた人たちが住む仮設住宅なのです。


ここで、ウシトラ旅団は放射能汚染問題と、防御のあり方について、出前授業をやりました。
旅団長が今年1月に東北各県を訪れた際に、「大熊町の明日を考える女性の会」の木幡ますみさんから伺った話は、
「大熊町の町民は、放射能汚染の危険性について、おそろしいほど無頓着だ。なんとか勉強する場ができないか」ということだったのです。
「勉強会」の要請を受けていたのが、ようやくこの形で実現できました。





ずっと、原発と一緒に生きてきて、町づくりそのものが原発と一体になってきたところです。
大熊町の人々の意識も「原発と一体」になっている人が多くいるようなのでした。
まだ、安全神話の中にいる、とも言えますが、むしろ起こっている事態に、しっかりと目を向ける訓練ができていない、ということのように感じます。

そんな中で、「大熊町の明日を考える女性の会」の人たちが、最初は孤軍奮闘、だんだん数を増やして、「子供や孫の命を守りたい」「大熊町の行く末についてちゃんと考えて発言しよう!」と活動が活発化してきていたのです。
大熊町のとりわけオヤジさんたち、町長と一体になって、原発の町づくりをしてきた意識を変えたい、という思いの活動の大事な一つとして、この学習会は位置づけられました。

どうせやるなら、講師を派遣して、ウシトラ旅団のメンバーの勉強も兼ねて、一緒に学ぼうと旅団長は考えたのであります。

参加者はウシトラメンバー7人に、講師の先生。
朝9時出発。わが輜重輸卒鶴翼隊を組織して、いざ、会津へ。
と思ったら、旅団長思い出すのも嫌なトラブルで出発が1時間も遅れてしまった。



雪を心配し、間に合うだろうかとハラハラしながらの道中でした。
2時開始になんとか間に合って、ほっとしたのも束の間、旅団長が頭に描いていた学習会の内容がガラガラと瓦解する初動の展開に。

「やさしいことばで、放射能汚染の危険のイロハのイと、実践的な暮らし方の知恵に絞ってお願いいたします」の旅団長、伏して願い奉った内容とかけ離れてしまったのでした。
しかっし! ここからがウシトラの力。

長くこの問題を勉強してきたパイン丸と、実践で鍛えられいるメンバーが、フォローまたフォロー。
なんだか掛け合い漫才の如く、考え方や伝えたいことを具体的に「講義」してくれたのでした。

いやいや、驚いた。
ウシトラ旅団のメンバーには、いまや、その道のエキスパートとともいうべき人材がちゃんといるのでありました。



大熊町民にとって、この原発事故以来の状況は、物理的な理屈の問題ではありえず、具体的な被曝のありよう、暮らしの展望、帰るか帰れないか、どうやって生き抜いていくのか、という問題です。
そのことを理解した上で、わかりやすく質問にも答え、両名は漫談勉強会を実現したのでした。

仮設の集会場にはおよそ80人ほど。
壮齢、初老の男性陣、おばあちゃん、いじめられてもめげない女性陣、若い夫婦……。

最初に挨拶された自治会長さんは40年も原発で働いてこられた方でした。
それも各地の原発を歩き、そう、あの「原発ジプシー」と呼ばれるそのままのありようなのです。




お子さん二人も原発労働者だそうです。
他にも原発で生きてきた、町を支えてきたとある種、自負を持って今を生きようとしている人がいるのです。
「原発で線量をたくさん食ってきたけど、俺ぁ、なんともねえぞ」という発言に
旅団長は「あなたが大丈夫だからといって、ほかの人が大丈夫だということにはならないだろ。発症、発病は統計的な問題としてしか現れてこないんだから。いま、勉強したところだろ」なんちゅうヤジなど飛ばして、まわりにいさめられる始末なのでありました。

「体を悪くしたという話は俺の知っているかぎり一人もいない。俺の仲間もピンピンしている」
の発言には、
「あなたは○○に住んでいた●●さんを知っているだろう。●●さんだって知っているだろう。ガンでなくなっているじゃないか」
と具体的な反論が上がってきます
これが大熊のリアリティです。



婦人たちからは
「うちは原発から1km、線量は80(マイクロシーベルト/時)です。どうしたらいいでしょうか。帰れるのでしょうか」
「(こういう家なんだけど)除染と言ったってとても無理そうに思える。やりようがあるんですか」
「子どもや孫のことがどうしたって心配」
本当に切実です。




大熊町はどこへ向かうのか? 
大熊町の人々はこれからどうなっていくのか?
大熊町民は自分たちで道を切り開けるのか?

せめてこの人々を政策的に切り捨ててしまうようなことはけっしてあってはならない。
そのためには、大熊町の人々が自分自身で、決断し行動をとっていかなければならないでしょう。

しかし「放射能安全(原発推進派)」と「暮らしの安全・新たな展望派」が、こうして一堂に介して、学び議論しているところに、むしろ旅団長は希望を見ています。
この対立が深まり、にっちもさっちもいかなくなるかもしれません。
でも、けっして忘れていけないのは、どのような考えの持ち主であれ、立場の違う人であれ、同じように放射性物質は降り注いできたという事実です。
被曝とその危険性は立場を超えるのです。

ウシトラ旅団は反原発運動に参加しますが、それと、放射能防御活動と被害者への支援は別物です。
だから、反対派であれ、反対派に反対の立場(いま推進派とはとうてい呼べないと思います)であれ、ウシトラは能う限り一緒に進みたいと思います。


やれることをやり、一緒に進む努力をする。
第2弾、第3弾の勉強会なのか、べつの支援なのか、それも懸命に考えて行きたいと思っています。

もっとも頑固にみえた「反対派に反対」のオヤジさんと、
「また、お邪魔します。今度は酒を飲みに来ます」
と、声をかけたら
「うれしいことをいってくれるねぇ」
と握手してくれました。

数十年、原発のただ中で働いてきた、厚くたくましい手の感触でした。