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2013年12月16日月曜日

富岡町泉玉露仮設クリスマス会

先日の14日(土)、いわき市泉玉露にある富岡町の仮設住宅で自治会によるクリスマス会が行われました。
昨年に引き続きウシトラ旅団も参加させていただき、子供たちと楽しいひと時を過ごしてまいりました。

今年は開会前から筑波大学の学生たちが十数名きてくれて、子供たちとリース作りを行いました。
やっぱり若い人たちが支援に入っているすがたはいいものです。




ウシトラ旅団の大きな役目のひとつに「仮設・借り上げ住宅住民支援」というものがあります。もともと2011年の秋、まだできて間もないこの仮設住宅になかば押しかけるように「何かやられてください。お手伝いすることはありますまいか」と訪ねたのですが、あれからもう2年経ちました。
新年のもちつき大会に始まり、3.11慰霊祭、花見とこのクリスマス会は仮設自治会の自発的な企画です。ウシトラはそのバックアップをやらせていただいております。

さて子供たちの作ったボンボンリースもできあがり、天井からぶら下げていよいよウシトラの役目が始まりました。


             

ウシトラの役目は大雑把に「クリスマス会を盛り上げる」というこのイベントの最重要課題であります(笑)
今回NPO法人大震災義援ウシトラ旅団の監事が学生時代の先輩に協力を要請。ご登場いただいた方が
マジシャン安達さんでした。

安達さんは都内の小学校校長を務められ、退職後も幼稚園園長を歴任された方。子供たちのハートを一瞬でつかみます。


まるめたティッシュも浮かせます


子供たちもこれこの様子


いやはや見事な手品でありました。安達さん、ご協力感謝いたします。


手品の出し物の後は自治会のお母さんたちのこさえたカレーでお昼ご飯。私たちもご相伴にあずかりました。
うまかった!このお母さんたちは「ほっこりカフェ」を運営している方々です。仮設住民は仮設内ボランティアを
自分たちで組織しているのです。そうした働きを持続するということはとても重要で、なんとかしてこの困難な
状況を協力という名のもとに克服していこうとする意志が伝わってきます。



食事の後はいよいよお待ちかねのビンゴ大会!!



ウシトラ旅団は今年も特賞を用意しました。大人2名子供2名分のディズニーパスポートです。


結果、なつみちゃんが見事引き当てました!おめでとう!カズもアンもダブルリーチでしたが、惜しかった。
とても残念がっていましたが、アンはなつみちゃんはずっとディズニーランドに行きたがってたからよかったよお、
と・・・・なんと優しい子供たちでしょう。

盛り上がったこのビンゴ大会。進行はもちろん我がウシトラ旅団が誇る「マリオ」渡辺さん。子供たちからの人気
抜群であります。見事な進行でありました。グー! いいねー!のコールアンドレスポンスも健在であります。

今回仮設自治会によるこのクリスマス会を支えたのは筑波大学の先生・学生たち。富岡町のボランティアとして
社協を退任後も活躍されているKさん。地元のグレイス教会・テモテ教会。大先輩の力を得てのウシトラ旅団。

たくさんの人たちの協力でなんとか避難している方々をサポートしたいと思いますが、なんといってもこの富岡仮設
の人たちの自発性や自律性に触れるたびに勇気をもらうのは私たちなのです。これからも継続して一緒に生きていく
決意を新たにいたしました。

somebin



2013年11月18日月曜日

11月4日「福一原発問題肉薄ツァー」(3)



★交流学習会(みんぷく研修所)

大熊町、富岡町の視察を終えて、
楢葉町、広野町の様子を窓越しに眺めながら、いわきへ向かって6号線を南下しました。

いわき市中央台にある3.11被災者を支援する連絡協議会みんぷく研修所での交流学習会は、郡山から参加するという福島連帯労組や、仙台から来たという人に、地元のいわき自由労組、除染労働者などなど、おまけに韓国のテレビ放送局や通信社の記者もくっついて、なんと総勢80人ほどにも膨れ上がったのでした。
「この人数は交流会とは言わない。集会って言うんだ」なんて吐露する人もいて、(そうなんだよな。実は会場のプレハブの底が抜けるのではないかと心配されているんだぁ)と、私も胸の内でつぶやいていたのであります。



みんぷくの赤池さんに原発事故後の浜通りについて、説明をしてもらいました。
赤池さんはこのみんぷくの事務所が立つ中央台(開発新興住宅地)で、震災と原発事故直後から、消防団員として楢葉や広野の被災者の支援活動をやってこられた方です。
いまも被災者がどのような問題を抱えているかをよく知っており、それをどう解決しようとしているかを行政の動き、支援の側の動きの両方から見ておられます。
震災以後の流れと現状について、教えてもらうには最適です。



もう一つのテーマは被曝労働の問題です。
これは、いわき自由労組の書記長の桂さんから、地元の労働組合としての訴えを聞き、除染労働者のAさんと、Bさんに具体的な話を聞きました。

分かっているつもりでも本当に暗澹とした気持ちになり、怒りが湧いてきます。
被曝を軽減するという方策はまるでとられていないも同様、そして待遇も賃金も、ウソで塗り固めたやり方が労働者に押し付けられています。

興味深いやりとりがありました。泉玉露仮設住宅で「損害賠償勉強会」を主催している堀内さんが、除染労働者の問題について労基署の対応を質問したことです。
いわき自由労組・桂さんの「労基署交渉は星の数ほどやってきた。結局、除染手当(危険手当)問題でも管轄外として取り合わない」という回答を聞き、
「自治体へ働きかけが必要だ。自分も町長や職員にこれについて迫るよ。できることをやっていく」と、うれしい応援表明がありました。


除染労働で働いている人の半数は地元の人達です。
つまり、この問題は浜通りの人々の人権の問題でもあり、これからのいわき市や相双八ヶ町村の未来のあり方にもつながっていることなのです。
堀内さんの敏感な反応は被災者が抱えている損害賠償の問題と同様のものだと感じたのだと思います。こうしたことに一緒に知恵を出し、進んでいくことがとても重要だと思います。

11月10日には「町長を呼んで町政懇談会をやるんだよ。今度は逃さねぇよ。みっちりやっからな」という堀内さんをわがマイクロバスで仮設住宅へ送ると、ツァーのみなさんはバスから降りて彼を握手攻め。
堀内さんもいつまでもバスを見送ってくれたのでした。


★帰りのバスで聞いたツァーの感想(ほんの少し)

・もう帰れない、と簡単に自分は言ってきたのだけど、観念的だったと反省した。りっぱな町がここにはあったのだ。その重みをもう一度、噛み締めなければと思った。


・線量の高いところに初めて入る経験をした。除染労働者の話を広く伝えたい。このような企画をまたやってほしい。

・いわきへは震災直後に山谷の支援者も入っていた。県外ボランティアはもういらない、と言われたのだけど、今でも関わりをもちたいと願っている。被災地とつながるために何ができるのかを考え、今後の取組みにつなげていきたい。

・ゴーストタウンのような現場に行ってみて胸に迫ってくるものがあった。むなしさを感じた。被曝労働者が実際の作業でマスクもろくにしていないなど、驚くような話を聞けた。ゼネコンはいま福島関連で物資を収めるときに、「人を準備できるか」と要求しているそうだ。オリンピック準備で労働力を東京へシフトさせざるをえず、福島で働く労働者をどう確保するかの問題が出てきているのではないか。被曝労働者の事も含めて、日本のしくみを変えていくことを考えなければと思う。



・自分は南相馬出身で家も津波にやられているし、集団移転の問題などの課題が切実だった。みんぷくの赤池さんの話がわかりやすかった。原発事故による苦しみが広がっていることと、そこをどうしていくのかについていろんな人が考え関わっていることがわかった。識者と専門分野というだけでなく、生活全般をどうしていくのかに取り組まなければならないと思う。被災者のための新しい住宅、仮の町構想などを誰がどう描くかのか、こういうことで食い違いがある。未来のイメージをどう描くかに注目していきたい。



・貴重な体験をさせてもらった。自分なりに誰かに伝えなければと思った。夜ノ森のサクラの紅葉、こんなにきれいなのに人が住めない。被曝労働者の話はこんなことになっているのかとショック。自分の頭の中にいろんなことがぐちゃぐちゃに出てきているけど、教員としてしっかり考えて、子供たちによりよい未来をつくるようにしていきたい。

・ウシトラ旅団の現地との長い付き合いによる、よく作られたツァーだった。感謝したい自分が住んでいるところで運動することでつながっていくことを目指してきた。職場の地下通路で毎日、福島産の野菜を売っている。12月1日に荒川で反原発の集会をやるので、被曝労働者の話も伝わるようにしていきたい。

・いろんなものがギュッとつまったツァーだった。見て学んだことを組合員に返して、福島の問題が風化させないために、今日のことを消化して明日からの糧にしたい。



・(報道取材のために)福島には10回ほど通ってきたけれど、戻ったら普通の生活があるというギャップの中にいた。これからもとっと頻繁に通いたい。日本でも海外でももっと報道していきたい。

・除染労働の仕組みをきいて深刻な状況と矛盾を知った。盛りだくさんのツァーだった。
・ひとりではなかなか行けないところに案内してくれて感謝。サクラの紅葉、たわわな柿の実、りっぱなお家、すばらしい様子なのに人の姿だけがない。目で見て自分なりに感じることができた。運転手さん、ありがとうございました。

・気持ちが重いまま参加したのだが、来てよかったなと思う。大熊町の様子など、何をやっていったらいいか、突き詰めて考えてみたい。

第2原発近く。常磐線はすっかり草に埋もれて線路が見えない
・盛りだくさんの内容の濃いツァーだった。(6月の)前回バスから降りられなかったところに、今回は降りて、よく見ることができた。赤池さんの話で、被災者が分断されていることがよくわかった。久之浜などいわきのほうがどんどんきれいになって、被災が遠くになる。一方の打ち捨てられている富岡や大熊の様子との対比がすさまじい。被曝労働の問題に関わる活動を積み重ねることが必要だと痛感した。

・福島(浜通り)に来たのは2回目。今回はスケジュールがきちんと立てられて、内容もよかった。これまで津波の被害などみても、当事者じゃないのでどうやっていったらいいのかと思うところが多かった。これから反原発のありかたを考え直していきたい。

・TV、新聞などで見るのと全然違ってリアルに迫ってきた。濃い内容を準備したスタッフと運転手さんにお礼をいいたい。


・風景に打ちのめされた思いがした。富岡の様子と(いわき市の)「道の駅よつくら港」の演出されたような不自然さ。当事者なのに当事者ではないようにされてしまっている気がする。今日のような体験は大事だ。東京でも想像力を研ぎ澄ますことが必要だと思う。被災者との出会いも、3.11直後に足立の武道館で、止められるのを振り切って炊き出しを強引に始めたことでできた。人と出会い、対話をすることをやっていかなければ。みなさんとこれからも協力をしていきたい。

2013年11月11日月曜日

11月4日「福一原発問題肉薄ツァー」(2)



★富岡町へ戻り、夜ノ森地区へ

大熊町を後にして、富岡町へ戻りました。
まっすぐに夜ノ森地区へ行き、富岡町民がいつも誇らしげに語る桜並木に入りました。

夜ノ森地区は、富岡駅のあった南のほうより、原発事故前には人口も増えて、活気と勢いのある町だったそうです。
数キロにわたる桜並木と、公園やショッピング施設が人を集めていたといいます。

そこは、いまはこうしてわたしたちが入っていける地区と、立ち入りを許されない地区にバリケードでぶった切られ、人のさんざめきも子どもの声も聞こえてこない家が、静かに建っているだけです。

バリケードの向こうとこちら側と、いったい何が違うのか、という不条理さが迫ってきます。






試験除染で桜は樹皮が剥ぎ取られた

ツァーバスは、住宅地の細い道を抜けて、富岡町役場を脇を通り、海岸線へ出る道を選びました。
町役場やそれに隣接する文化交流センター「学びの森」を見ながら、海辺へ向います。
「除染をやっていますね。学びの森はりっぱな建物でしょう。原発立地交付金で作られた施設です」(西山さん)。

学びの森は原発事故直後に、避難所および富岡町の対策本部の役割を担ったそうで、ここから田村市などへ避難していった人たちが多くいたようです。

道々、農家らしい家々には、濃いオレンジに色の柿の実がおそろしいほどになっています。周囲は草ぼうぼう。
「ここらあたりは、全部、見事な畑だったのですがねぇ」(西山さん)。
とても畑とは思えない様相なのです。そこにイノシシらしい動物がバスの前を横切り、走りこんで行きます。



 ★海に向い、第2原発を望む

富岡川の河口近く、りっぱな家だったという前富岡町長の屋敷はすっかり津波で流され、土蔵がひとつ建っているだけ。
津波と原発事故の直後から、芳しからぬ噂が立った現場のひとつだと聞いておりました。

いわき市や原発で避難した町村では、いろんな話が語られており、聞いていれば「さもありなん」と思うものも多いのです。
噂話は、大方、秘密裏のものが津波で表に現れたの、自分と家族だけの安全を図ったの、原発や除染絡みの金儲けの裏事情だの、です。

むろん、それらのほとんどが嘘かホントかわかりませんが、しかし、これらの芳しからぬ噂話は、町民と首長(市長と市民)の関係が、はしなくも現れている気がします。
原発と地域社会の関係の問題は、まだまだ闇に埋もれたところがたくさんあります。これからでもぜひ明らかになってほしい。



さて、前町長の家あたりから岬の突端に上ったところにあったのが、観陽亭でした。
観陽亭は高い崖の上にあり、振り返れば奇岩として有名だったろうそく岩がみえます。折れてしまって、たぶんもう三分の一くらいしか残っていないのではないか。



20メートルを越える津波が襲い、この観陽亭を全壊させたのです。
堀内さんがここの主人に直に聞いたを語ってくれました。
「いくらなんでもここまで海水が上がってくるなんて思っていなかったから、このテラスのところで海を見ていた。とんでもなく盛り上がって津波がやってくるのが見えて、急いで二階に避難して助かった」。
たぶん、福島でいちばん高い津波が来たところではないかということです。



福島第一原発と第二原発は、たぶん10キロメートルくらいしか離れていません。この岬は、その中間にあります。
南を望めば第二原発がよく見えます。




ガイドの堀内さんがまた語ってくれます。
「第一と第二はほぼ同じ構造。見てのとおりだ。あれが原子炉建屋、その前がタービン建屋。海に張り出している形だっぺ。防備にもならん堤防があるだけでよ、海水を使って冷却をするポンプの電源が海側に置いてあったんだから。他の電源の高さの問題でも、なんにも安全策はなかったといっていいんだよ」。

第二原発も非常用電源を失い、四つの外部電源経路のうちたった一つが生き残ったおかげで大事故を免れたという状態だったなぁ、と事態の恐ろしさを思い返しました。

視察を終えて、第2原発敷地内なのだと思いますが、スクリーニング場へ行き、50人分のタイベックスやマスクなどを始末して、一路、四ツ倉道の駅での昼飯へ。
ここで郡山からいらした人たちと合流、いわき市中央台にある「みんぷく」の研修所へ向いました。
車中は、「堀内さんの話をきかせろ。マイクを持ってくれ」のリクエストが何度もありました。


町の人々の意識、仮設住宅の暮らし、
富岡でのタヌキやキジと暮らしたかつての生活、
損害賠償の話、
津波で失った家族係累の話……。

胸にずんとくる話ばかりでした。


2013年11月8日金曜日

11月4日「福一原発問題肉薄ツァー」(1)


11月4日の「福一原発問題肉薄ツァー」はまたしても(思いがけずの)大規模なものになりました。おかげで(思いもよらぬ)成功をもたらしてくれました。
 もともと「肉薄ツァー」はウシトラ旅団による、福島県浜通り視察と勉強会を兼ねた企画です。これが、お友達のいる諸団体との共同の試みになっています。
今回は、「被曝労働を考えるネットワーク」「脱原発荒川の会」、「ウシトラ旅団」三者による共同開催としました。

今回のツァーの言い出しっぺは「被曝労働を考えるネットワーク」に関わっている山谷の労働者の方々でした。
山谷で日雇い労働をしていた人たちの中から、除染や原発で働くために福島の浜通りへと行った人もいますし、実は、原発が作られる前から山谷は福島県の浜通りや会津地方の人々と関係が深いようです。
いまは数次にわたる下請けの日雇い労働者が浜通りに入っています。その人々の健康や待遇について、真剣に取り組まなければならない状況です。そのためにとにかく浜通りの現状を視察しなければというわけでした。

そこに荒川区地域で脱原発運動や、福島につながろうとする運動をやってきた「脱原発荒川の会」が応えてくれたのです。
ウシトラ旅団はひたすら現地とのコーディネートです。
ガイド役を探し、視察コースを選定し、交流勉強会の内容にあった講師の心当たりに連絡を取りという作業です。
それでも「行くよ!」といえば、ウシトラ旅団がこれまで関係を作ってきた人々が「俺も連れて行け」「わたしもお願い」という具合で、あっという間に用意したマイクロバスは定員に達し、急遽、もう一台を用意しました。


富岡町へ。タイベックスや手袋などをいただいて、視察地へ向います。

そんなところへ、全労協という労働組合の団体が交流勉強会に合流させろ、というご要求。全労協女性委員会の人たちが前日、郡山で年一回の会議をやって、その後に浜通りに入るプランで動いていたのだそうです。
あちらの現地ガイドは、富岡町から郡山に避難しているTさんと、会津若松にいる大熊町の木幡ますみさんとか。
あららら、マスミンはまたここでも動いているか。んなら、断るわけにもいきません。

日暮里駅前からのマイクロバス2台、ドライバーはわがウシトラ旅団のミヤシタ車両長、もうひとりは練馬で福島の子供たちを呼んで保養活動をやっているグループの伊丹さん。
高速道路の運転だけでなく、現地の細い道に分け入ってからのUターン、崩れかけた崖の上の微速前進、どちらも見事な運転、安定感があります。私たちを安全に運んでくれました。


津波被害そのままの富岡駅で西山さんの説明。
高校時代はここから通うなど、毎日使った駅だったそう。

ガイドは、ウシトラ旅団が入り続けている泉玉露仮設住宅の西山さんと堀内さんにお願いしました。もちろん、二人とも富岡町民です。
広野インターチェンジを降りたところで待ち合わせたら、あら嬉しや。堀内さんが二日前に視察最適地を探してくれていました。
中でも、思いがけず大熊町にも連れて行く、第2原発が望めて富岡の町も一望できる場にも案内してくれる、というのです。
富丘駅前。「このお店はおいしい魚を食べさせてくれたところだったんですよ」(西山さん)

堀内さんは「これから大熊町に向かい、最後はこの左手の岬の突端に案内するかんね。あそこから、第2原発も、富岡町の街中も一望できっから」と指差します。


★大熊町へ
大熊町で、入れるところがあるという話で向いました。
確か、大川原地区のはずです。
車からは降りずに、車止めのあるところ、ぎりぎりまで行きました。
さすがに、これまで通ってきたところより、空間線量が高い。


「こんな町にしたものを処罰しろ!」と大熊町町長よ、なぜ言わない
試験除染と言われていましたが、ここがそれにあたるのでしょうか。山林はいくら除染しても無駄、というのがすでに大方の意見です。
事故を起こした第一原発があった大熊町は、ほとんどの人たちがたとえ政府主導の区分わけ(20ミリシーベルト/年)に従っても帰還できない壊滅状況というべき状況です。
それでも、除染作業は続いています。



お屋敷といいたくなるりっぱな家の前に、柿の実がたわわに実り、いいところだったろうなぁと思う集落に、除染作業らしき人だけがいます。生活の気配がまったくしません。

えい、ものはついでだ。
この日、会津若松の避難先からガイドの一人としてやってきていた、木幡ますみさんがテレビ朝日「朝まで生テレビ」で語った内容をくっつけておきます。(書き起こした人ありがとう)。

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「今日もね、私の所に避難者から電話が来て『私は死にたいっ』ていうから、
『死んでダメなんだよ、何言ってんの』って、怒ってきたんですけれど‥‥。(注・賠償も先の暮らしも見えてこない被災者は、こんな気持ちでいます)

高線量の、例えば大熊町とか、実験的に除染をやりますからって言われて、なんか今回除染した金額が1億5000万円だったみたいなんですよね。
私は無駄な金は使ってほしくないって。
みなさん先ほどからお金のこと言っているでしょ、(注・金がかかるから避難させられないという主張)なんでそんな高線量の所をわざわざ除染して、それは実験ですか?って思うんですよね。
本当に高線量の所に、除染のお金を1億5千万円も使うんだったら、そんなの無駄だから、そういういところは全部切り捨てて、除染をしないで、別の所に住むようにきちんと復興住宅を作るとか、賠償をきちんとするとか。

たとえば私の家は、だいたい1千坪あるんですよね。家屋が3軒あるんですけれど、私の賠償は、1軒の家が70万円なんですよ。土地と家で。70万円で何が建てられる?って思うんですけれども、やっぱりね、もうちょっと高くしてもらえれば。
復興住宅なんかも早く作ってもらえれば、帰る必要もないし、経済的にっていうんだったら、今いるところで働いて、お金を生み出して、税金を払う、これが国のためにはいいんじゃないかと非常に思うんですよね。
わざわざ高いところの線量を落とす必要はありません。
そして、そのために、仮置き場を作る、そしてそれによってお金を出す、こういう無駄なことはもういらないって、私だけじゃないですよ、住民はみんなほとんど言ってます。
だから線量の高いところはやめて、実際に住民が住んでいるところは、除染と言っても消えるものではありませんけれども、移染なんですけれど、それは木の葉をとるとかして。

あと、先程からお金かかるお金かかるって言うけれども、お金をかかるようにしたのは誰なんですか!
原発を作って、そのようにした人たちは誰なんですか!
私たちが望んだわけではないんですよ。
それなのに、そんなのお金かかるから、お金かかるからなんて話はないんですよ。
はっきりいって、ふざけてるんじゃないって、私は思いますよ。

私たちは原発の犠牲者ですよ。
私は原発がしたくて原発の所に来たんじゃないんです。
農業がやりたくて大熊に来たんです。
だから、高線量の所はもうやらないで、人が住んでいるところを除染して、
それでも、私の子供はこれでだめだという人には、保養をさせてほしいと思います。
それのために、やっぱり被災者支援法じゃないですけれども、子どもを育み・育てる。
これが国家の、これからのためになるんじゃないですか。子供を産み育てることが。
子供を産み育てられない社会なんて、みんな嫌になってしまいますよ。
死にたくなってしまいますよ。

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車止めでUターンして、富岡町へと戻りました。
途中、話に聞いていたイノシシがバスの前を横切り、草が伸び放題の畑へと姿を消していきました。

富岡のお話は、また、次回に。

2013年8月25日日曜日

『シュレーディンガーの猫』下北沢公演を振り返る


★みんな、よくやった!
 福島県立大沼高校演劇部は『シュレーディンガーの猫~OUR LAST QUESTION』を下北沢の劇場「楽園」を連日満員にして、7回の熱演を終えました。15日、16日には、隣の市のライバル校である会津若松ザベリオ学園演劇部が『彼女の旋律』を賛助公演として、上演してくれました。
応援してくださったたくさんのみなさんに、改めてお礼を申し上げます。

観劇後に見送りの生徒たちに迎えられた観客はみんな涙で顔がぐちゃぐちゃ。
その顔を見て、生徒たちもまた涙ぐむという光景が、毎回、見られました。
感動でものも言えなくなった観客が、並んでいる生徒たちと、一人ひとり握手していく様子をみて、この公演をやって本当によかったと思いました。

★怖かったらしい下北沢公演
公演が決まってから、大沼高校もザベリオも必死に稽古してきました。
公演一週間前に大沼高校へ伺ったとき、稽古場には椅子と、竹刀で組み上げられた「塔」に黒い幕が巻きつけられ、それを挟んで演技が繰り返し試みられていました。
劇をご覧になった人にはわかると思いますが、「楽園」は大きな柱を挟んで二つの舞台が存在するという「おもしろい」(大変な)劇場でした。
台詞を交わす相手が見えないところで、彼らは演じていたのです。
特殊な舞台、東北大会で酷評されて全国大会への道を閉ざされた心の傷……。彼らは不安を抱え込みながら、練習に励んで、東京へやってきたのでした。
でもね、17日の公演のあとのトークショーでどきりとさせられる言葉が、ある生徒の口から出てきました。







彼らは会津美里町にある楢葉町からの避難者仮設住宅と、会津若松市にある大熊町の仮設住宅で、この劇を演じていました。
そのときのことを尋ねた旅団長に、新部長(2年生)は、次のように答えたのでした。
「会津美里の楢葉公演の方が先だったんですけど、その時、正直こちらはすごくビビッていたんです。本当に大丈夫なのかなとか、やってもいいのかなと。東北大会のことがあって、落ち込んでいて、精神的にも参っていたんです。けれども、楢葉公演を乗り越えてから、またどんどん成長して行って、メッセンジャーとして・・ここに来ることができたんで・・本当につらかったですけど・・・(涙声に「ガンバレー」という楽屋裏から3年生の声)楽園に来て本当良かったな・・と思います。』(拍手)。
この後の回の上演後に行なった3年生のトークでは「大熊町のときに『被災者が特別扱いされるようなのって、わたしも嫌だな』という台詞(軋轢を起こしているかつての親友・避難者に向けて発せられる)を、声が震えてちゃんと言えなかったんです」と語った子もいました。
彼女は大熊町の避難者の前で演じ終えて挨拶をした時、おじぎをしたままいつまでも顔を上げずにいました。ようやく上げた顔は、涙の中に顔がある状態になっていました。




震災を見せものにしている、原発事故避難者を利用している、と彼らは言われもし、自問自答も繰り返してきていたのです。
この子たちの優しさには深さと厳しさがあると感じました。『シュレ猫』という作品に取り組むことで培われていったものだと思います。
演劇もさることながら、この若者たちの姿を私はみなさんに見て欲しかったのです。
そのような心を育て、そのような気持ちをつなぐことこそを、ウシトラ旅団は目指すのだと感じいったのでした。

★これがようやくのはじまり
『シュレ猫』という作品、それを演じる大沼高校演劇部との出会いは、ウシトラ旅団にとっても実に幸せなことでした。
ウシトラ旅団は被災民とそれを取り巻く人々の関係をどのようにつくっていくのかを考え続けてきました。単なる支援・被支援を超える関係づくりの試みをボランティア活動の重要な柱の一つとして位置づけてきたのです。会津に、この課題に意識的に向き合っている高校生や顧問の先生がいらっしゃることが、私たちには何よりの励ましでした。








8月19日、宿泊地・代々木のオリンピック記念青少年センターで、彼らを見送ったのち、旅団長とソメビンは、こんな会話を交わしておりました。
「何だか終わった感じがしないんだよなぁ」
「え、あんたもそう?」
たいがい、大きなことをやった後は、疲れとともになんとか無事に終えることができた、という充足感があるのです。でも、今度はその感覚ではないのです。
「う~ん、たぶん、これが始まりなんだぜ」。

演劇をまたやると断言しているのではありません。私たちが取り組んでいる活動が、より深い意味を伴って「これからどう進む?」と、私達自身に迫ってきているという気がしているのです。

これから数回にわたって、公演に至る過程から振り返り、『シュレ猫』が訴えた内容と公演活動が背負った意味について考えてみたいと思います。
と、いったところで、どうせウシトラ旅団の考えることです。たいして内容に深みがあるわけもなく、次回以降も気軽に読んでください。

2013年7月5日金曜日

6.29『原発問題肉薄ツァー』


富岡駅前、久しぶりの「帰宅」だったという冨岡の方と語る

★『原発問題肉薄ツァー』第一弾
ウシトラ・ツァーの第1回目を実施しました。「被ばく労働を考えるネットワーク」の人たちとの共同開催でした。
富岡町が3つの区域に再編され、町民でなくても、警戒区域の前までは行けるということになって、まず、ここまで行って、富岡町のありさまを見てこよう、というのが大きな目的でした。

プランは、富岡町の視察、楢葉町の除染の様子の視察、久ノ浜の津波被害地の今、そして、四倉で福島第一原発の中に入って作業に従事した労働者の話を聞いて、お勉強と交流を行うという盛沢山の内容です。

やりきれるかな、と少し心配はあったのですが、参加者に「行ってよかった」という感想をもらえるものになりました。

富岡町のガイドは「とみおか子ども未来ネットワーク」の渡辺和則さん。
原発事故でいまは埼玉県に避難しており、それでもいわきに新しい事務所を開いて、通いながら法律事務の仕事をやっておられる方です。

富岡駅あたりは津波の被害がそのまま放置されていました。
久しぶりの帰宅をしたという富岡町の方が、母子そしておばあちゃんの三世代で、防護服をまとっていらっしゃっていました。
娘さんが遠くへ行くというので、富岡町の様子を見ておきたかったということのようでした。

津波被害そのまま。ここまで常磐線の運行を伸ばそうという話があるというが……。


「地震でもずいぶんと被害が出たんです。それに私のところもそうなんですが、親戚やら津波でなくなった人もけっこういるのです」
そんな人たちを助けに行きたくても、放射能の危険で、捜索もままならなかったということです。
「ほんとに、あのとき、なんにも準備せずに家を後にして、そのあとは家を打ち捨ててありますから、いまさら除染して、住めといわれても、家は傷んでいて、どうにもなりません」
よく聞く「帰りたくても帰れない」そのままの話でした。


同じく駅前。
富岡駅近く破壊されたまだ津波で破壊された車が放置されている


ガイドの渡辺さんの住居は、駅のすぐ近くにあって、
「あそこが私の住んでいたところです」と指さした先には、ひっくり返った車や、瓦礫が散乱しています。
「壊れたあの赤い車が妻が載っていた車です」と言います。
「妻が助かったのは前の日の喧嘩のおかげ。実家にもどっていたんです」。と笑いました。
奥様は妊娠していたというし、このあとの大混乱の中の避難を考えれば、いっそ運がよかったということなのでしょうか。



夜ノ森の桜並木。実験除染で樹皮を剥がれ、赤い幹の桜が痛々しい
 ★ひっそりと荒廃が進むように見える北部
6号線を北上しながら、夜ノ森へと向かいました。
途中に見えた田圃や畑は荒れて、雑草に覆われ、地震で崩れた家や塀がそのままの姿を晒しています。
夜ノ森は、帰宅困難区域、居住制限区域が接する所、わかりやすく言えば、それより先は許可なく立ち入りができませんよ、というわけです。
いや、少し違う。
ここまでは面倒な手続きなしに、「立入りできますよ」ということなのだろうと、思います。

今回、本来ならば、行くにしてもわたしたちもきちんとタイベックスを着込んで訪れるべき場所に違いないのです。

北上するに従って、車中で線量計のアラームが鳴り響きます。
「金網とバリケードで区切られたあっちとこっちと、みなさん、どれだけの違いがあると思いますか? 同じでしょう。きっと線量も違わないし、住めるというふうにもならない。なのに、賠償などでは大きな違いが出てくるのです」(渡辺さん)

なにか現実感がない。確かにそこに家並みや木々はたっているのですが、映画か何かでみたような、不安を掻き立てられる光景でした。




滞在時間は長く取れるはずがありません。
わたしたち自覚してのおじさんたちはともかく、同乗の若い人たちの被曝はできるだけ小さくしたい。
バスは止まらずぐるっと細い道を巡って、また6号線へ。

おじさんたちだけがバスを降りて、富岡町の役場の前に立ちました。すぐに戻れると思ったまま、ここらに集まり、渋滞におしとどめられながら、車で田村市方向へ延々と逃げていく混乱が始まったのでした。
役場の前に降り立った者たちは、原発立地の自治体が無自覚にとてつもないリスクを背負っていたものだったことを、少しでも感得できるものがないか、と探していた気がします。

富岡町役場の張り紙。2011年3月12日のものではないか?


役場前ベクレル数値

★除染労働実態についてレクチャー
楢葉、広野へと戻りつつ、いわき自由労組のMさんに、除染作業がどのように行われているのかを、教えて頂きました。

バスで通り過ぎるばかりで、写真を撮る暇もなし(いえ、わたしは彼と「次はどうする」と打ち合わせをしつつ、インタビュアーもやっていたのです)。
家屋の除染作業、土壌、刈られた雑草や木々を砕くプラント、どうにもならぬほど積み上げられている楢葉の「汚染物」フレコンバッグの山といったものが窓の向こうに見えていました。

Mさんは、除染労働の現場で働き、全国からやってきている労働者の相談相手をやってきたのでした。

放射能防御のための服装の準備や施設がまともにない状況、自分の安全を守る対策は、労働者個々にただおしつけられているだけで、雇用者はほとんどなんの責任も負おうとしていない実態が語られました。




いわき市に入り、久ノ浜に立ち寄り、家の基礎だけが残っている光景の中にたちました。
しかし、まだ、このほうが、冨岡の静けさより生の感触があります。


久ノ浜の津波被害地 瓦礫が片づけられ家の土台だけが残る

線量は東京と代わりはしない数値になっていました。
「なんか、別世界に行っていたようだな……」と思っているところに
やはり自分の車で参加してくれていた郡山のSさん(福島連帯労組員・除染労働者)が
「風があるのでね。放射性物質は中通りに飛ばされていったんですね。でも、ときおり、やはり風のせいだと思うのですが、数値が上がるんですよ」と言う。

★フクイチで働いていた労働者に話を聞く
「原発問題肉薄ツァー」の締めくくりは、福島第一原発の現場で働いていた二人の労働者に話を聞き、交流することでした。
二人とも携帯求人サイトに応募して、フクイチに入っていた人です。
雇用者、またあまりにひどいやり口で彼らをフクイチの現場に放り込んだ、人買いヤクザの業者と、これからじっくりかまえなければならないので、彼らのことをここで個人特定される内容を書くことができません。
当然、写真も掲載いたしません。

多くの人達には、おそらく想像を絶する有り様です。
口約束での賃金はほとんど守られることはなく、食事もろくに用意されなかったといいます。
事実として人間扱いをしないありようがフクイチではまかり通ってきました。
そうは言っても、二人とも倫理的にもしっかりしているし、なかなかに明るい! 
全国からやってきた、このような人々の労働で、フクイチの危うい均衡は保たれてきたといえます。


思いがけない大人数に膨れ上がった四倉公民館での交流学習会

明らかにできるところを少しだけ書いておきます。

・彼らのようにしてやってきた労働者は、多重下請けになっていて、聞いた中で12次の下請けの人がいた。それでも5次下請けの自分より賃金は高かった。
・ほとんどが違法な雇用状態で、たいがい3次下請けくらいのところに雇われていることになっている。「●●会社の人間として入ってくれ」で労働してきた。いつの間にか間にはいっている会社はまるで知らない会社。

・当初の高線量の中に入り、アラームに追われるような作業もやってきた。「嫌なら行かなくてもいいけれど」の言葉には、仕事をする立場としては拒否することはありえなかった。
・福島第一原発の中は建物がめちゃくちゃに壊れていて、見せられた事故前の見取り図や写真では、何が何だか、さっぱりわからない状態。つまり自分がどこにいるのか、そこに何があるのか理解できないという。
・フェンスで区切られた原発敷地内と外では、線量も何も同じはずなのに、フェンスの外の人の放射能防御(マスクの質など)が格段に落ちる。

といった話が次々に出てきます。

彼らについてももちろんのこと、原発や除染労働で働いている人たちの切実な問題に、いわき自由労組が取り組んでいます。
書記長の桂さんが会場にいたので、これからの取り組みの方向も少し話をしてもらいました。
いま、無法状態が続いている。たとえば環境省が形だけいいことを言っても、現場の労働者を守らなければならないはずの労基署は知らんぷり。
雇い主で一番下にいる「一人親方」とではなく、1次、2次下請け、元請けへと攻めていき、そして、国を相手にするようにしなければならない、と発言しました。

また、いわき市にある福島高専の生徒さんと、彼らをフィールドワークに連れ出していた先生もこの交流学習会に参加してくれました。
地震・津波・原発事故とあまりにひどい被害の中で、避難者の現状について調べ、研究してきたのです。
コミュニティがどのように変容して、どのような問題が起きてきたのかというところに焦点を据えてきたようです。

「コミュニティの崩壊が言われますが、実は震災前にそれはなくなっていたのではないのか、という問題意識がありました
うまくいっているところや、元気な人というのは、こんどの震災前から周囲との関係をきちんともち、活発だった人です。仮設や借り上げの人たちの関係を作っていくには、そこに着目する必要があると思います」と言います。



福島高専の学生さんから話を聞く
どのようにして避難民、原発労働や除染の労働者、そして受け入れる側のいわき市民の人たちとの関係をつくっていくのか、目の前に見える形でつきつけられるような気のする交流会でした。

交流会の場を見渡せば、思いがけず会場はいっぱい。40人くらいは参加していたみたいです。
東京からバスで行った者が28人。
現地で、協力してくれる人たちの参加で膨れ上がったのでした。
ウシトラがいわきを中心に活動をはじめて2年3ヶ月。
さまざまな人達と出会い、このような形の行動ができるようになったのだと、実感しました。
すぐに参加者希望者で満席になったことといい、このような企画を求める人々の気持ちもあります。
そこをテコに、もっとみんなで力を合わせられるようにしたいなぁの「肉薄ツァー」の第1回でありました。

とても好評だったので、きっとまた近いうちに、このような企画をやります。
どうぞ、ご参加下さい。